2014年10月8日水曜日

Komm schon, es ist die Wiederaufnahme des Krieges (Leben)

 生きるという事の本質を、最近よく考える.


 まあ、簡単に要約して一言に纏めろと言われたら、こういうだろう、中二病の再来だと。

 環境が変わっても、愛する人が変わっても、私という主観は基本的には変わらない。(基本的に、ね 過去一度だけ、今の私になる前のベースの人格が居た{私は以前の私から今の私に至るまでの間に出来た、空白の時期の自分を、人形だったと認識している})

 生とは死だと、誰かが言う.
 私も、死こそが生だと想う.
 故に、私は生きているのだから.

 この世は、贖罪の為の場所なのかも知れない.
だとすれば、私はどんな罪と業を背負い、この世に堕とされたのだろうか.
 魂という概念に希望を抱くのは、パンドラの箱を開く事と同義なのだろうか?
 人や神が特別だとは思わない、というのは世間一般の認識だと思うのだが、私は少し違う。
 人も神も動物も、有機物だろうと無機物だろうと、全て等しいと考える.
 私達人間は、皆等しく、自分という世界の主観から世界を覗く、観測者だ。
 観測者が互いに主観を交換しあって初めて、客観性というものが生まれ、保たれる事になり、そこに世界が形成されるのだ.
 そしてこの世に私達のような観測者がいるからこそ、霊体や神という概念、自身よりも上位の存在を、私達は様々なモノや現象などに見出してきた.


 総じて何が言いたいのかを纏めると、「神や霊という概念を信じさせてほしい」という事。

 例えば北欧神話のワルキューレが死を看取り、その人の人生は報われたのだとか、考え方の差異は宗教毎に色々あるのだとしても、宗教が人に求めている死後の世界観の共有、考え方の共有は本当に大事だ。
(無神論者ばかりのこの国で、どれだけの同意が得られるかは甚だ疑問だが.閑話休題)
 故人が生きていた証を認め、偲ぶことの大切さを、この国の人間は忘却している.
 (墓参りが大切だとか、そんな杓子定規な話ではなく、魂や心を尊ぶ、という意味でね)

 世界と自身の間に信仰という価値観を自分に与えてやることで、初めて自身の心のゆとりももてるようになる。
 宗教の一つの到達点として、悟りという概念があるけれど、心のゆとりをもつ、という事そのものが「悟る」という事なのだろう.

 そういった宗教などが重きを置いている、精神的な自制はとても大切なのだが、悲しきかな、今の処我が国日本では、独学以外には手段がない。
 (信仰する教義を選択できる、という意味では恵まれているのかも知れないが、大多数は何も信じていないのが現実)

 私は、あまり死に抵抗がないのだけれど、だからこそ人並みに、いやそれ以上に、生きた証が欲しい、と強く願う。

 そう、願わくば、後の世の人の数人でいい。
その数人に、あの人は漆黒の闇を照らし、皆を導く月のような女性だったと、そう語り継いでほしい。(余談ですが、私は自分の魂が戦乙女、北欧神話のワルキューレの一人なのだと信じ続けている)

 月夜に連ねた拙文

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